「寺子屋と御家流」

皆さんは寺子屋と聞いて、どんなことを思い浮かべますか? “読み書きそろばん”を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
そもそも寺子屋の歴史は室町時代にまでさかのぼりますが、寺子屋の機能が再認識されるようになったのは、江戸時代に入ってからのようです。それも興味深いことに、江戸の三大改革(享保・天保・寛政)の度に寺子屋が増えたと言われていることです。三大改革は経済力を持ち始めた商人たちを公権力で押さえつけ、武士たちの借金を合法的に踏み倒すことがねらいでした。 その武士勢力に対抗するには、それなりの学問が必要だという認識が寺子屋ブームを呼んだのです。そして、その寺子屋ブームを引き起こしたのには、その他にもいくつかの理由がありました。
そこで今回は、その理由のひとつである「御家流」についてお話ししたいと思います。

◆長い戦乱の世が終わって江戸時代に入ると、徳川の支配は北は蝦夷地から南は鹿児島まで「御家流」の書体で統一された文書を使って行われました。 幕府のお触れはもとより百姓町人の届書や年貢の取り立てなど公文書は全て「御家流」で書かれたため、読み書きできることが必要になりました。 そして、19世紀に入ると教育熱は一気に高まり、寺子屋が全国に誕生したのです。
それでは、「御家流」とはどのような書体だったのでしょうか。

【御家流】
◆「御家流」の書法は、和様の行草書と仮名を交えた独特のもので、戦国時代に浄書された公文書にすでに見られたものです。 濃墨の潤筆によって、はっきりと書かれていることから、公的な書類に使用されることが普及し、徳川幕府では「御家流」を公文書書体として明確に位置づけられました。 「御家流」の書き手には、各藩の能書家が選ばれ、書式についての厳しい訓練がなされたものと思われます。
◆先ほどお話ししたように、徳川幕府が早くからこの「御家流」を幕府制定の公用書体とし、高札や制札(法規などを箇条書きに記して、道端や字j社の境内などに立てた札)、公文書などに用いただけでなく、さらに寺子屋の手本としても多く使用されたことで大衆化して、あっという間に全国に浸透したのです。 そして、この「御家流」は、歌舞伎文字の勘亭流、瓦版、謡曲手本、看板文字など、いろいろ形を変えて、一般大衆(庶民)の書として発展していったのです。

※寺子屋の教科書(御家流)の写真を挿入したかったのですが、残念ながら失敗しました。