「江戸のSDGsに学ぶ~Ⅱ」(1)
これまで3回にわたって「エコロジー社会だった江戸の町」についてお話ししてきました。
今回から「リサイクル社会だった江戸の町」についてご紹介したいと思います。
まずはじめに、「リサイクル社会」だったと言われた江戸の町で庶民たちはどのように暮らしていたのか、「江戸庶民の暮らし」についてお話しします。
2.「リサイクル社会だった江戸の町」
(1)「江戸庶民の暮らし」
◆まずはじめに、「江戸庶民の暮らし」を全体的に見てみましょう。
◆人口が百万人を超えて、世界一の国際都市となった江戸で、庶民たちは狭い空間でひしめき合って暮らしていました。 当時の町人地は14%で、人口密度は約6万7千人だったと言われています。 現在の東京23区の人口密度の約5倍であり、かなり窮屈な暮らしでした。しかし、このような窮屈な町で暮らす江戸っ子のライフスタイルはその日暮らし。仕事に追われる人生ではなく、その日その日をいかに楽しみ、いかに遊ぶかが大きな関心ごとでした。 長屋で暮らし、江戸の町を自由自在に使いこなしていたと言われています。
◆商人も大商人は店を構えていましたが、小商人の多くは店を持つことができず、長屋に住んで生計を立てていました。
長屋にもいろいろありますが、標準的には間口九尺、奥行きが二間、今でいう六畳一間で生活スペースは四畳半という狭さでした。風呂はないので銭湯へ行き、トイレは長屋にある共同便所を使用していました。
◆当時の長屋は、住み心地の良さを求めるというよりは寝室として、寝る時だけ帰るというような場所でした。
では、寝るとき以外はどうしていたかというと、食事をするときは町中の屋台を利用し、リビングルームは湯屋(銭湯)の二階の座敷を、ミーティングルームには髪結い床(床屋)の土間を利用し、日用品が必要な時はいろいろな棒手振り(物売り)を利用するというように、江戸の町全体を自分の家のように使いこなす機能的な暮らし方をしていた庶民が多かったのです。
★このようなことから江戸の町は、お金がなくても暮らしやすい町だったという点で、SDGsの⑪「住み続けられる まりづくり」のヒントになるのではないでしょうか。
◆次に、「江戸庶民の暮らし」をもう少し具体的に見てみましょう。
《衣生活》
◆衣類は庶民にとって高価な物だったので、庶民の着る物は基本的に古着でした。その古着は親から子へ、兄や姉から弟や妹に着られるだけ着回しをする、いわゆる「おさがり」は当たり前のことでした。また、着物は仕立て直しをして着るのが普通でしたので、古着の需要が多く、古着の売買がとても盛んでした。
★「刺し子・藍染め・つぎあて」などで布を丈夫にして衣類を長く着る工夫をしていました。
《食生活》
◆食生活はとても質素で、棒手振り(行商人)が売りに来る魚などは贅沢品でした。肉食は原則としてありませんでしたが、鶏・卵は貴重なタンパク源として食べられていたようです。例外的に「初鰹」のような初物は値段が高くても、無理をしてでも買うような風潮がありました。
朝食の時に昼・夜用のご飯も一緒に炊きました。「ご飯・みそ汁・たくあん」が普通で、納豆がつけば御の字でした。 また、独身男性が多かったので、屋台の他に町の(総)菜屋や煮売り屋を利用しました。
《住生活》
◆江戸の庶民の大多数は長屋住まいでした。長屋の真ん中に共同の井戸があって、すぐ脇に共同の洗濯場ありました。端に共同便所があって、片隅にごみ置き場がありました。そこへ専門業者がごみ集めに来ました。
★「すだれ・蚊帳・風鈴・打ち水」などで夏の暑さをしのぎ、少しでも快適に暮らす工夫をしました。
《その他》
◆燃料はもっぱら薪と木炭など植物系の物ですから、有毒なガスがでるわけではありませんでした。 照明はたいていの家では菜種油を使っていました。ロウソクは高価だったので、大名屋敷や大商人の家でしか使われていませんでした。
◆以上見てきたように、江戸庶民の生活スペースはとても狭かったので、できるだけ物を持たない工夫が必要でした。そこで登場したのが「損料屋」という商売です。 畳・布団・冠婚葬祭の衣装・鍋・釜などの家財道具、基本的にはあらゆる物をレンタルする商売です。物は使うと価値が下がっていくので、その損を料金としていただくので「損料屋」と呼ばれました。 江戸の庶民たちは、できるだけ物を持たない工夫として、この「損料屋」を利用したので、とても繁盛しました。 ですから、江戸の庶民たちは今風にいえば「究極のミニマリスト」(最小限の物しか持たない人)だったと言えるのではないでしょうか。